宮崎県児湯郡川南町(こゆぐんかわみなみちょう)
平田(へいだ)神社

ご挨拶

当社は、旧平田村の氏子の協力を得て護持運営されている神社で、年の森と宮居の地といわれる場所が一望できる場所に鎮座しております。
戦前は、御祭神の武勇を尊び、出征する方の参拝が多かったようです。
現在では、厄除け、必勝、安全祈願などの御神徳があります。
平田という名の通り周りは田に囲まれた静かな場所ですので、近くに御寄りの際は、ぜひともご参拝いただけたらと思います。
平田(へいだ)神社 宮司 永友 敬人

日本武尊を讃えて

やまとたける Copyright© いもきゅー

「やまとたける」
Copyright© いもきゅー

川南町海側の地に鎮座する平田神社は、天正年間大友宗麟がこの地に乱入の際、由緒・古文書が焼失したため、創立年が分かる遺物はなく、古老の言伝えとして由緒が残っています。
また、「奉再興平田大明神一宇 文禄三年甲年十一月二十五日」と書かれた棟札が残っています。
言伝えの中に出てくる宮居の地とされる場所は、平田川沿いの高台とされています。戦国時代にも要所とされた場所で、出城の跡が現在でも残っています。
軍事的要所であったためか、足利将軍義政の時、伊東氏より、神領三百石寄進、高鍋藩主秋月公時代には、神領三石寄進などと、古文書に記載されています。)

年の森

また、口伝の中に書かれている歳の森は、平田神社社殿より南東の田の中にあります。
堤防など作られて、川とは隔たれているが、田の中に一か所だけ、木が茂り、異空間を作り出しています。
現在では、年の森と呼ばれています。
県指定古墳にも登録もされています。

夜神楽の祭典

春、夏、冬祭りの時に、宮居と年の森に御幣を捧げ、お祭りしています。
特に二日間の御神幸祭時には、最終日に年の森の周りを神輿を担いで三周して宮入りします。
平田神社では、六年に一度、六社連合大神事と呼ばれる、夜神楽の祭典が行われます。
この六社とは、比木神社(木城)白鬚神社(川南)八坂神社(高鍋)愛宕神社(高鍋)八幡神社(新富)で構成されています。
六社連合となったのは明治以降、神楽を守るために高鍋藩内にあった神社の宮司が集まり現在の六社で持ち回り夜神楽を行うようになったのが始まりであります。

祭神説明

倭建命(=日本武尊)は第12代景行天皇の子として誕生した。
幼名を小碓命(おうすのみこと)という。

景行天皇は小碓命に九州の熊襲(くまそ)を平定するように命じた。
日本武尊は熊襲建を謀殺する。
熊襲建は亡くなる前に自分たちの「建」の名をもらってほしいと願う。
そして,小碓命を倭建命(やまとたけるのみこと)と称えることにすると言って息をひきとった。
小碓命はこれより倭建命(ヤマトタケル)と名乗ることにした(「建」は勇敢な者という意味を持つ)。

倭建命は蝦夷征討を命じられ途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かった。
陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定する。
日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。
その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。
そのまま伊勢国に入るが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御した(景行43年)。白鳥陵に葬られた。

ここに崩御と書かれているが、この言葉は天皇にしか使われないものが用いられており、倭建命が天皇と同じ扱いを取られていた事が考えられる。
なお、『古事記』によれば、死の直前に大和を懐かしんで「思国歌(くにしのびうた)」を詠んだとされ、この歌は、大東亜戦争中に東アジア地域へ派遣された兵士の間で大変流行ったという。

社紋

平田(へいだ)神社

平田(へいだ)神社

稲穂 Copyright© いもきゅー

「稲穂」
Copyright© いもきゅー

秋月氏が領有していた江戸時代に、秋月氏の家紋「輪違いに唐花」を模した社紋を、平田神社がいただいたと伝わっています。
秋月氏の家紋は中心に花びらが描かれていますが、平田神社の社紋の中心部花びらではなく、剣菱(けんびし)・槍先(やりさき)だと言われています。
また、宮崎県児湯郡木上町にある「比木神社」にも同じような社紋をいただいています。
現在に至るまで、どのような理由によって秋月氏から平田神社へ、この社紋をいただくこととなったのかは、現存しているどの文献にも記されておらず、未だ不明のままとなっています。

比木神社

比木神社

秋月家 家紋
【出典】宮崎県高鍋町Webサイト

秋月家の家紋

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